大広間は酷い悲しみに包まれていた。そこかしこから啜り泣く声が聞こえ、むせ返るほどの血液と消毒液の臭いが充満している。
どれだけのひとが命を落としたのだろうか。壁は大きく抉られ、そこかしこに魔法の撃たれた跡が生々しく残っていた。誰のとも知れない血痕が渇くことなく流れ落ちる。誰がなんと言おうと、これは戦争だった。幼い子どもがたくさんいようと、ここは戦場だった。
瓦礫を退かしできたわずかな空間に多くの人間がすし詰めに押し込められている。この内どれだけの人が生きているのだろう。これからどれだけ命を失うのだろう。ハリーには想像できなかった。けれど現実は否応なしにハリーに選択を迫る。勇敢なる死か、醜悪なる死か。受け入れて死ぬか逃げて死ぬか。結局両者は大して変わらない。ハリーがヴォルデモートに殺されることは決定事項だ。
大広間の奥に、赤毛の集団が見える。ウィーズリー一家だ。ハリーは胃に鉛を詰め込まれたような感覚を受け、咄嗟に両手で口元を押さえる。そうしないと胃からものが逆流してきてしまいそうだった。酷い吐き気に視界が歪み、ハリーは壁に背中を押しつけずるずるとその場にうずくまる。
それはハリーの罪跡だった。ハリーがホグワーツを戦場にしてしまった。彼らを巻き込んでしまった。その事実がハリーにのし掛かる。

肉親を失う気持ちをハリーは知っていた。いや、知っているつもりだった。シリウスを失ったとき、ハリーは世界で一番彼の死を悲しんでいると思っていた。死んだ人間の親族にしか悲しみは理解されないと本気で思っていた。
じゃあこの状況はどうなる、とハリーは自問する。ロンが泣いていた。ジニーもジョージもパーシーも、ウィーズリー夫妻も。そして、ジニーに寄り添いながら、ハーマイオニーも頬を涙でびしゃびしゃにして泣いていた。その光景を見て、誰が一番悲しんでいるかなんて言えるはずがない。ハーマイオニーがロンより悲しんでいないなんて、思えるわけがない。
そのときハリーは気づいた。シリウスとハリーの間には本当は何の繋がりも無かったのだと。肉親だと言っていても、本当はただの後見人で血の繋がりなどない。シリウスが遺産をハリーに遺しても、その事実は変わらない。肉親と言って、確かな繋がりを求めて縋っていただけだ。なんて浅はかな考えだろう。
けれどシリウスは唯一ハリーのことを一番に想っていてくれたひとだった。例えハリーとジェームズを重ね合わせていたとしても、生きていた者の中では一番ハリーと近い関係だった。それだけは譲れない。
だが、シリウスを一番思っていたのは本当にハリーだろうか。安らかな表情でトンクスと共に逝ったルーピンの姿が脳裏に浮かぶ。ハリーはほんの二・三年シリウスと過ごしたが、ルーピンは学生の頃からの付きあいで、親友だった。十二年間の齟齬はあったものの、父さんが殺されピーターが裏切り者となった今、信頼できる友はシリウスだけだった。シリウスの死をルーピンが悲しまないなどと誰が言える。ルーピンの悲しみがハリーのより劣っていたなどと誰が言える。

つまり、ハリーは愚かだったのだ。どうしようもなく。


ハリーのことを一番に想ってくれるひとができたとき、ハリーは同じようにそのひとを一番に想った。シリウスはハリーにとってかけがえのない存在だった。
ハリーのことを一番に想ってくれるひとを失ったとき、ハリーは深く悲しみ絶望した。シリウスからハリーへの繋がりが切れた今、ハリーがシリウスを繋ぎとめるしか方法がなかった。
ハリーは自分を一番に想ってくれるひとがいたことを無かったことにしたくなかったのだ。愚かにも、自分のためにシリウスを一番に想い、ルーピンや他の存在を脳内から消去して、そうして守りたかったのは結局自分自身。
つけが回ってきたのだ。自分を守るために他者を蔑ろにしたつけが。代償は命であったが、それが重すぎるとは思わない。当然の報いだ。今日ここで潰えた生命。今までに無惨にも刈り取られた罪無き生命。その原因は少なからずハリーにもある。もっと早くにダンブルドアの本心に気づいていれば。もっと魔法が上手だったならば。もっとハリーが賢かったならば。犠牲者はもっと少なかっただろう。後悔してばかりだ。
吐き気をなんとかやり過ごし、瓦礫に手を突き身体を支えながら再び立ち上がる。覚悟は決まった。いや。初めから選択肢は一つしかなかったのだ。ただ一歩を踏み出す勇気がなかっただけで。
思えば、この選択だってそう悲観するようなことではないだろう。ハリーが死ねば皆悲しむだろうが、同時にヴォルデモートも死ぬことになるのだからこの地獄の日々も終わりを迎えることとなる。ヴォルデモートの支配からの開放を喜び、ハリーの死などすぐに忘れるだろう。ロンとハーマイオニーはきっと悲しむだろうが、二人なら大丈夫だとハリーは確信している。彼らならきっとハリーのようにはならない。
ハリーを一番に想ってくれるひとがいないことは哀しいが、悪いことだけではない。現に今がそうだと言える。ハリーの死を悲しんでも、皆大切なひとと慰め合える。ひとりで悲しむ人間などいないだろう。誰もが大切な誰かと悲しみを癒すことができる。それだけがハリーにとって唯一の救いだった。
ハリーは一歩を踏み出す。それは死に向かう道だった。透明マントを被る。その瞬間、ハリーは確かに存在しているのに存在していない存在となった。誰もハリーの存在に気が付かない。誰もハリーの歩みを止めない。当たり前だ。ハリーは存在しない存在なのだから。
そのときハリーは気づく。シリウスが死んだときに欠けたものの正体を。そして理解した。
ハリーは孤独だった。どうしようもなく。揺るぎなく。






哀れな少年に喝采を


(080915)