ある夜更けに、ひとりの赤子が産まれた。
ひときわ大きな声を上げて泣く赤子は、その瞳に炎を宿していたそうな。










泣いた赤鬼








真っ赤で真ん丸なそれを見たとき、正直とてもじゃないが、人の子だとは思えなかった。
布から赤い毬が飛び出して、もそもそと動くのを見る度に、ああ、あれは毬では無く人の子だ、と思い出すのだ。
思い出す、というより、あのややは昌幸様のお子だと長が言ったため、佐助はそれをひとであると認識している、だけである。
佐助は、産まれたばかりの人の子というのを見た事がなかった。
甲賀の里では、子どもが産まれると、すぐさま子を育てる役割を担った忍に預けられる。
そして、ある程度の動きが出来るようになるまで、その役割の忍によって育てられる。
佐助ら下忍がまみえるのは、己の二つの足で立ち歩くようになってからであるのが当たり前であった。
なので、眼前に抱き抱えられているそれが珍しく思え、気づけば佐助は、傍目には分からない程度にその赤ん坊を注視し、観察してしまっていた。
(昌幸様のご次男様…)
赤子とは、よく言ったものだと内心感心する。
それは、正しく赤の子であった。
真ん丸の頬は、熱でもあるのではないかと心配するほど、赤く色づき、ちらりと見える指先もまた、同じように赤く、箸を握る程の力でも加えれば、容易く折れてしまいそうなほど、弱々しい。
一見しただけでは、それが人の子であるようには見えなかった。
猿の子と言った方がしっくりくる容貌である。
もちろん、それをそのまま昌幸に言えば、激昂を買うのは必定だ。それを弁えている佐助であるが、正直佐助は昌幸の考えを図りかねていた。
佐助は忍である。
忍とは元来、血生臭く、暗殺や密偵を主な仕事とをしており、武士だけでなく農民からも 忌み嫌われているものである。
確かに、真田家は忍を人として扱い、重宝しているが、まがりなりにでも真田家の次男坊を、佐助に、一介の下忍に見せるなど、本来ならあり得ないことだ。
長は、佐助を連れてきておきながら、何の説明もしないまま昌幸の腕の中にいる赤子を微笑ましげに見ており、佐助の視線にも気付かない振りを続けている。
そのすました顔のなんと憎たらしいことか。
思わず沸いた殺意に、反応したのは驚くべきことに昌幸であった。
ゆるく頭を巡らせ佐助をみ、そこでようやく佐助がいたことを思いだしたようで声を発した。
「おお、お主が佐助か!よき忍のようだの。こやつがよくそなたの話をするぞ。」
無礼にも、幸昌に対してではなくとも、殺気を晒してしまったことに頭を下げる佐助であったが、昌幸は全く気にとめていないようで、忍頭を顎でしゃくった。
「こやつが手塩にかけて育てているそうだな。全く、将来が楽しみだ。」
そう言って昌幸は殊更に優しげに笑ったが、佐助はいまだにひざまずいていたため気付く事はなかった。
「面を上げよ、佐助。そう畏まるでない。」
「はっ。」
「どうだ。此れは可愛いであろう。」
戦国一の知将と名高い、上田城城主、真田昌幸は、佐助が今までに見たことも無いほど、だらしなく頬を緩ませて、蕩けてしまうほどの優しい笑みを顔に敷きながら腕に抱えるものを見た。
無論先ほど思った感想をそのまま口にする訳にはいかない。
けれど、佐助にはこういった生まれたばかりの赤子に対して何と言えば失礼にあたらないのか、全く見当がつかなかった。
しばし思索した後、佐助は己が最も目についたことを口にすることにした。
「とても赤いお子でございます。」
僅かばかり緊張しながら言葉を発っせば、長はわすがに苦笑をし、昌幸はこれまた嬉しそうに破顔した。
そんな、双方の全く異なる反応に困惑する。
やはりおかしな事を言ったのであろうか。
確かに昌幸の腕の中にいるややは愛嬌があり、可愛らしと言えなくもない。
だか佐助には初めて見たときの、赤い毬ないし猿の赤子の印象が強すぎて、可愛らしいとは言いづらかった。
そこで、全ての印象に当てはまる赤という単語をいったのだが。
ここはとりあえず謝罪すべきかと、両手を膝の前に差し出そうとしたとき、昌幸は大きく頷いた。
「そうであろう、そうであろう。此れには何より赤が似合う。」
そこで、おおと何か閃いたように佐助を見た昌幸は、「佐助。近う寄れ。」と佐助を手招きした。
まさか、主のいる上座に行くわけにはいかないと長を見るが、可笑しげに細ませた目で、行くように促される。
仕方なく一歩歩み寄るが「もっと、もっとだ。」と昌幸に促され、ついには座布団一枚の距離も無いほど近くに座る。
これ程近くで昌幸と対面したことなど佐助にはなかった。
というより、昌幸と直に顔を合わせたのは、今日が初めてだ。
一層緊張する佐助を知ってか知らずか、昌幸は先刻より緩んだ顔で佐助をみる。
「腕を出せ佐助。」
「はっ。」
言われて両腕を真っ直ぐに差し出す佐助に、これまた「違う」と昌幸は首を振る。
「こう、脆く大きなものを抱くような腕だ。」
「はあ…。」
そう言われても、困惑は増すばかりだ。
なぜそんなことを要求されるのかは分からないが、言われた通り、見よう見まねで、腕を僅かに曲げて伸ばし、両手のひらは上を向ける。
果たして、これが正解かどうか判断はつかなかったが、佐助にとってはこれが精一杯の優しい腕だった。
昌幸はその腕の格好を見、やや呆れたようであったが、一つ頷くとおもむろに腕に大事に抱えた赤子を持ち上げた。
「え!?」
「動くでないぞ佐助。」
ぴしゃりと言われた言葉に佐助は色々な意味でその場に固まった。
動くなと命ぜられれば、動くわけにはいかない。
ここで昌幸の命令に逆らえば、後でどんなお咎めをうけるか分かったものではない。
けれど今、佐助はお咎めを受けてでも差し出した腕を引っ込めたい衝動に駆られた。
(おいおい、嘘だろ!?)
内心非常に焦る佐助をよそに、昌幸はゆっくりと、佐助の腕の上に抱いていた赤子をのせた。
「え、ちょっ、ま、待ってくだ…。」
「これ佐助。そんな手付きでは此れが落ちてしまうであろう。」
ほれもっと腕をあげよ、これここを手のひらで支えよと、昌幸は忙しなく佐助に指示を与えた。
普段呑み込みの早い佐助でも、今度ばかりはそういうわけにはいかず、何度も昌幸に叱咤され、ようやく安心して赤子を抱えられる格好をとれるようになっても、ぎこちなさが抜けることはなかった。
その様子を微笑ましげに見る昌幸と長に気づきながらも、佐助は緊張と腕に抱く赤子に定一杯で気を向ける余裕は無かった。
(これが、赤ん坊…。)
それは、佐助の想像以上に熱かった。
布越にも分かる程の体温。
熱でもあるのではないかと心配するほどだ。
「熱でもあるのではないでしょうか。」
「いや、赤子というのは、体温が大人よりずっと高いものなのじゃ。心配するでない。」
昌幸の言葉にほっと胸を撫で下ろす。
それにしても、と腕にいる赤子をまじまじと見つめる。
やはり赤い。
遠目で見たときも感じたが、間近で伺えは余計に赤く感じた。
顔が極端に赤い訳ではない。
確かに頬や指先は赤く色づいてはいるが、顔全てが赤いというわけではない。
なんと言えばいいか。ただ漠然としたものではあるが、この赤子を見たとき、赤の色彩が瞳にこびりついて離れなかった。
「どうじゃ。可愛いであろう。」
「はい。」
昌幸の問いに、殆んど無意識に答える。
佐助の腕の中で、赤子はそれはそれは気持ちよさそうに寝ている。
佐助はその顔から目が離せないでいた。
ひとは、こんなにも無垢な表情もできるか。
それは一点の穢れもない姿であった。
ただ、生まれたばかりという理由だけでないなにかが、この赤子には在るように感じられた。
誰にも侵すことのできない、強固で神聖ななにかを。
「佐助。」
昌幸に名を呼ばれはっと顔を上げる。
昌幸を伺えば、先程まで浮かべていた笑みは消え失せ、その表情は正しく謀将真田昌幸のものであった。
「佐助。」
「はっ。」
居すまいをただし、こうべを下げる。
「此れは間違いなく我が真田家の宝だ。なれど、此れは決して真田家を継ぐことはない。わかるな。」
「はい。」
当然だ。
真田家にはすでに嫡男である信幸が生まれている。
信幸が不幸に見回れなければ、この赤子が真田家の跡取りになることはないということは、佐助も知っている。
「わしはな、佐助。この戦国の世で最も愚かしい行為は、兄弟同士で戦をすることだと思うておる。仮に別々の武将の下に就き、やむおえず敵味方に分かれたというのであれば、それはそれで構わんのだ。今を生きぬき家名を残すにはそういったこともやむおえまい。」
真田家の先祖幸隆は、戦国の世を生きぬくために、もとは敵であった武田家の軍門に降った。
決断するまでにどれ程の葛藤があったのか、佐助には想像もつかない。
息子として幸隆の苦悩も見てきたのであろう昌幸も、今は武田とは友好的な関係を築き、虎の右腕と称されるまでになった。
「なれど、やむおえぬ事情もなく、ただ跡継ぎを巡って争うたり、互いが気に食わぬといった理由で争うなど、愚の骨頂だ。そんなことを繰り返しておれば、戦国の荒波に呑まれ真田家などあっという間に滅んでしまうであろう。ご先祖様から受け継いだ名。お館様から賜った土地を、何としてでも後世に受け継がせていかねばならぬ。これはわしの義務じゃ。」
そう語る昌幸の姿は、とても今年で30は半ばを過ぎた人物には見えなかった。
声音には、ともすれば40にも50にも見える威厳と重みがあった。
「佐助よ。」
「はっ。」
「この子を頼んだぞ。」
静かに顔をあげれば、先刻とは打ってかわっりそこにはとても穏やかな笑みを浮かべた昌幸がいた。
昌幸は優しい手付きで佐助の腕の中で眠る赤子の頭を撫でた。
その腕には無数の傷痕が残っている。
「此れは生まれながらの戦人じゃ。抱いた瞬間にわかった。将来、立派な武士になるであろう。その時、此れが気を許せる人物がいることをわしは切に願っておる。」
今は戦乱の世。
いつ死ぬともわからず、いつ裏切られるともわからない。
昌幸はそれを誰よりもわかっていた。
「恥ずかしいばかりだが、すでに跡取りを此れか信幸かで揉めている輩がいるようでな。無益な争いを避けるために、此れが六つになるころ、武田家に奉公に出すつもりじゃ。お館様であれば、此れを立派な男に仕立ててくださるであろう。」
この赤子は生まれてすぐに、己の生き方が決められていた。
武士として、真田家のために尽くすことが。
今の時代、こういったことは特別なことではない。
「じゃが、六つかそこらで家を出れば、おのずと真田が家臣との交流は減り、これを跡取りに据えようなどと言うのものいなくなるであろう。反面、いざこれが真田に戻ってきたとき、これを煙たく思う輩がいないともかぎらぬ。」 佐助の腕から赤子を取り上げ再び自身の腕の中にやった昌幸は、優しげな父親の顔をしていた。

「佐助よ。お主は此れの何よりの味方であってくれ。」

返事と共に、佐助は深く頭を下げた。






(090622)