神様のために。それは合い言葉だった。戦士の証だった。生きる意味だった。
全てだった。





戦うことが義務だった頃








足は鉛を詰めたように重く、腕はライフルを抱えるのがやっとで、指先はとうの昔に感覚を失っている。
戦闘が始まってどれほど経過したのか、それすらも分からなかった。開始の号令がかかったのは、まだ朝日の昇る前だった。奴らは早朝神に祈りを捧げない。なんと許し難いことだろう。確かそんなような内容だった、俺たちが奇襲を命じられた理由は。
突入のとき一緒だった仲間たちもバラバラになり、それからずっと、飲まず食わずで走り続けている。死臭が立ちこめた戦場はまさしく地獄だ、と思う。実際に見たことはないからただの想像だが、もしかしたらここよりもマシかもしれない。

神の契約の地を守るために俺たちは戦っているが、契約の地とはいったい何だ?俺たちはなぜこの土地を守るために戦っている?神聖な場所?ここが?
ライフルを抱える腕に力を込める。なぜ、なぜ、なぜ。疑問ばかりが頭を埋める。
ここは地獄だ。確信を持ってそう言える。だってここに死しかない。父も母ももういない。仲間だって、日々減っていくばかり。明日は我が身という言葉を思い出して足が震えた。嫌だ、死にたくない。
死は終わりではない。聖戦に参加した者には平等に神の御許へと誘われ、永久の安息が約束される。だから死を恐れるな。そう大人たちは事あるごとに俺たちに言って聞かせた。
ではなぜ、そう語った大人たちは戦場に出向かない?俺たちに武器を与え、作戦を授け、戦場へ送り出すばかりで、なぜ自身は戦いに参加しない?なぜ日が落ちて戦闘が小休止するまで俺たちを迎えにこない?
大人たちは死を恐れている。なぜか?天国など存在しないことを、知っているからだ。だって、奴らは死んだことがないではないか。誰も今ここにいる人間たちは死後の世界を知らない。行ったことがないからだ。なのになぜ、死後の世界を、天国を、存在を、信じることができる?

「…くそッ!」

ぐにゃりと瓦礫の間から飛び出ていた物を踏み足がもつれる。だがもし今止まったら、もう二度と走り出せないと本能が告げていた。足場は最悪で、破壊された民家の瓦礫や鉄骨がそこかしこに散乱し、まともな道など存在していない。
瓦礫に手を突いて体勢を立て直し、なんとかその場をやり過ごそうとするが、一度踏み外した足は元には戻らずそのまま頭から前方へ倒れ込む。咥内に鉄と砂の味が広がった。唇が切れたな、と冷静に判断すると同時にもう駄目だな、と諦めに似た感情が全身を駆けめぐる。

(…俺は、死ぬのか。)
こんなところで、なんの意味もなく、朽ち果てるのか。
踏み付けたものが眼の隅に映る。あれは何だ。腐敗し蛆の湧いた塊。白い棒が突き出し、瓦礫には赤黒い汚れが染み付いている。あれは、なんだ。(まさか、)



―――い、やだ。

死にたくない、嫌だ、怖い。だって、死の果てには何も無いじゃないか。いなくなった者たちがそこで待っていると、誰も証明できていないではないか。
ぎりり、と地面に爪を立てる。爪が割れるのも気にならなかった。歯を食いしばり、四肢を奮い立たせる。
死んでたまるか。そればかりが思考を埋めた。泥黒い塊は膿のように身体に溜まり、今にも口から飛び出してきそうだった。
けれど、最後の一線を越えてはいけないと頭の中で警鐘が鳴り続けている。その先に気づいてはいけない。なぜ、なぜ。

「なぜ、俺たちは、戦わなければならない。なぜ、死ななければならない。いつ、聖戦は終わる。いつ、俺たちは救われる。誰が、この戦争を始めた。誰が、この戦争を終わらせる。誰の、せいで、俺たちは戦っている。誰の、ために。何の、ために、俺は、生きて、いる。」

決壊したダムのように、言葉の奔流が止まらない。口から突いて出てくるのは恨み言ばかり。救いを求める言葉は終ぞ出てこない。ああ、俺はどうやらもう駄目らしい。ぼんやりと霞がかった思考で思った。
どうして、どうして、俺たちはこんなにも世界からはずれている。なにがいけなかったのか、間違っていたのか。
枯れたと思っていた涙が瞼から溢れ出る。水分を放出するなんて、死を早めるだけだというのに、それでも内側から溢れて、止まらない。
なんて、寂しい。なんて、虚しい。なんて、哀しいんだろう。

「父さん、母さん…!」

助けを求めたい人たちは、もうこの世界にいない。昔仲の良かった友達も、神のためにといなくなった。
思い出した瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。駄目だ、それ以上、思い出しては、疑ってはいけない。
喉が震えた。止めどなく氾濫する言葉を止めることができる両腕は、身体を支えるのに必死で意味をなさない。止められない。

「神なんて、いない。」

ぶるりと体が震えた。そうだ、それこそが世界の真実だ。歓喜か、絶望か判断は付かなかったが、全身を駆けめぐる何かがあったのは確かだった。そうだ、それが世界の姿だ。

「この世界に、神なんていない。」

それこそが世界の真理に思えた。先ほどまで体内で蠢いていた黒い膿が、全身から溶け出ていくのを感じる。
そうして、満身創痍の身体に鞭を打ち立ち上がる。信じるべきは自身と腕に抱えた武器。神を信じた先に救いは存在しない。それを確信したとき確かに俺の中で何かが無くなった。けれど眼の前に広がるこの地獄だけは、決して忘れないと心に誓う。赤く焼けた、この場所を。
影が背後に長く伸びていた。自分の身長の倍以上あるそれは歪んでいて、ゆらゆらと揺れた。まるで蜃気楼のようだと思った。現実感がない。ただ一つ確かなことは、この地獄のような世界は紛れもない現実だということだけだった。
涙はもう、流れていない。




080801